ようやく夏の猛暑もやわらいできたかな?と思うこのごろ、
育児ノイローゼも遠ざかっているように感じます。
今月も、娘を連れて、テレビ座談会を聞かせていただいてきました。
『なぜ生きる』という書籍にある、
「『好きな道を歩いていれば、歩みそのものが楽しいのだ。
だから、目的地はいらない』
と言う人の、見落としているものは何でしょう」
という質問にお答えくださいました。
確かによく耳にする言葉だし、私自身も、
「思う存分、好きなことをやって生きられたら、
それでいいのでは?」
なんて思うこともあります。
耳をそばだててお聞きしていると、
「好きなことをやっていれば、目的はいらない」
を短くいうと、
「死ぬまで求道」
になると教えていただきました。
剣道、書道、華道、政治、経済、科学、医学、スポーツ、芸術……
生きるためには、このような道を進みます。
中には、3つ、4つとやっている人もある。
でも、それらは、どんな道か。
はじめは「好きな道やなあ」と思っていても、やってみると、
苦しい道やったんか、となる。
温泉へ年に1回か、2回、行くのなら、指折り数えて待つけれども、
それが毎日になったら、「やっぱり家がいい」となる。(でしょうねえ)
人がやっていると、いい道に見える。でも、いざ自分がやり始めると、
「こんな苦しいのなら、やーめた」となる。
「どう生きる」だけではそうなる。
こう言う人たちは、何を見落としているのか。
何をアキラメているのか。
「歩く行為そのものが楽しいのは、目的なき歩みに
むなしさを感じないほど、盲目的な間だけ」
結末がどうなるか、分からない時だけ、楽しいと思える。
結果が見えない。
「死ぬまで求道。これがいいんだ」
と思っている。でも、求まらないものなら、求める意味がない。
異性でも、求まると思うからこそ、追いかける。
どれだけ追いかけても求まらないのなら、求める気がなくなる。
絶対求まらないものを求める気がどうして起きるか。
求道、という言葉自体がおかしくなる。
全人類は、大いなるアキラメでしか生きて行けない。
「なぜ生きる」を知らない限り、盲目が開眼にならない、
とお聞きしました。
特に、
「泳ぐの好きだという人を太平洋のまん中に置いたら、
泳ぎ好きや、と言って、元気よく泳げますか」
この反問には、とても考えさせられました。
やがて体力尽きたら悲劇が待っているのに、元気よく泳げるわけがありません。
死ぬまで求道ってことは、こんな状態なんですね。
「じゃあ、求まったっていう道、どっかにあるの?」
って思っていたら、一つだけあると言われました。
それが、
阿弥陀仏の本願、阿弥陀仏の救い。
これだけに、求まったということがある。
親鸞聖人の教えの一枚看板は、
「平生業成(へいぜいごうじょう)」。
現在、生きている時に、人生の大事業が完成できるから、完成せよ、
という意味だそうです。
人生の大事業とは、人生の目的。
人生という海のまん中で、目的地もなく泳いでいるから、
育児ノイローゼなんかになったりしたのかな。
この人生の大事業、人生の目的をしっかり聞いて、
育児ノイローゼと完全訣別したいと思っています。