3月 01

 親鸞会の方のおうちで、またまたテレビ座談会を聞かせていただきました。
 このごろは、娘を連れていくと、そこに集まってくる子供たちが、娘をとっても
かわいがってくれるんです。
 娘がいちばん小さいからかな。一時的にでも、子育てから解放されることにもなり、
一石二鳥。育児ノイローゼになりそうな気がしても、ちょうどいいタイミングで
ご縁があるので、助かっています。

 そこで、それこそ、育児ノイローゼが吹きとんじゃうようなお話を聞きました。
 その日の質問は、

 「『生きる目的が最も大事』と話すと、
  『まず生活の基盤を整えることが大事だ』
  と言われたのですが、どう話せばよかったでしょうか」

 という内容でした。それを聞いて、
 「えっ、生活基盤が大事でしょ」
 って思っちゃったのですが、
 そのお答えに、うなってしまいました。

 「もし、太平洋のまん中に放り出されたら、あなた、どうしますか?」


 と尋ねられたのです。

 太平洋のまん中なんて……。水と空しか見えないですよね。
 とりあえず、泳ぐしかないかな。沈んだら困るし、
 って思っていたら、

 「どこへ向かって泳がれるんですか」。

 そう言われれば、まず、360度見渡して、
 どこかに船がないか、島がないかと確認するなあ、と思いました。
 ということは、まず大事なのは、「方角」「目的地」です。

 「イロイロの泳ぎ方、ゆっくり泳ぐとか、スピードを出すとか。
  平泳ぎか、クロールか、背泳ぎか。
  これは、生き方、どう生きるかに当たります。
  生きる手段です。
  どこに向かって泳ぐか。これが、なぜ生きるか。人生の目的です。
  生活基盤など、『どう生きるか』よりも、『なぜ生きるか』が
  大事だと分かるでしょう」

 うーん。なるほど。そう言われれば、そのとおりです。
 私は、育児ノイローゼとか、主人のこととか、いろんな生き方、
 どう生きるかにばかりとらわれてきたけれど、
 本当に大事なのは、「なぜ生きる」だったんですね~。

 なんだかとってもスッキリした気分になりました。
 今度こそ、育児ノイローゼ、完全克服できるかも!?
 子供たちにあやされて、これまた、ご機嫌の娘とともに、
 私も、気分上々で帰宅しました。

2月 01

 夕方5時ごろでも、明るくなってきましたね。
 大雪も遠のいたようで、育児ノイローゼもこのまま遠のいてくれると
いいなって思っています。
 娘を連れて行った親鸞会の方のおうちで、また、テレビ座談会を聞かせていただきました。

 前回に続いて、「3通りの念仏」についてのお話でした。
 そこで使われている『歎異抄をひらく』という著書に、3通りの念仏について分かりやすく書かれています。

 万行髄一の念仏……「諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って
              称えている念仏

 万行超過の念仏……「諸善とはケタ違いに勝れた大善根が念仏だ」
               と専ら称える念仏

 自然法爾の念仏……弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏

 念仏を称える心で分けられているんですね。

 涙でも、
うれしくて流すこともあれば、
悲しくて泣くこともある。
くやしくって流すこともある
ようなものだとお聞きしました。
確かにそうですよね。科学的に分析したら、みんな塩分と水分なんでしょうけど、
心は全く違います。

室町時代、親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人といわれる方は、
『御文章』に、

「まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり」

念仏に3通りあるってことを知らないで、ただ南無阿弥陀仏とばかり
称えていたら助かると思うのは、間違いだよ、
って、何箇所も教えられているそうです。

こんなにハッキリ書かれているのに、念仏に3通りあるなんて、
親鸞会の方とご縁があるまで、ぜんぜん知らなかった。
うちも浄土真宗なのに……。
法事なんかでも、親鸞聖人の教えについて、
一つも聞かされたこと、ありませんでした。

それにしても、
「弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない」
といわれる「自然法爾の念仏」を称える喜びって、
どれほどなのでしょう。

そんな心になったら、育児ノイローゼなんて、全く問題にならなくなるのかな。
そんな念仏称える身になってみたいなあって思うこのごろ。
育児ノイローゼも、どんどん遠のいていっているみたいです。

1月 19

育児ノイローゼから解放された言葉に関連して、
昨年、親鸞会の人から誘われて行った電話座談会のことを書きました。
(最近は、映像配信が主流になっているので、テレビ座談会と言っているんだそうです)
年明けて、
「うちなら子連れでも、テレビ座談会、聞けますよ」
と言ってくださる方があり、お言葉に甘えて、娘を連れて行って見ました。

そこに集まっていたのは、子供さんを連れたお母さん方ばかり。
(その家のお父さんもいましたけど)
とっても、にぎやかでした。
大きな子供はオモチャの置いてある部屋で遊ばせておいて、
大人は別の部屋で聞いたんです。
うちの子はまだ小さいので、そばにいさせてもらいましたが。
幸い、いつもお昼寝する時間だったので、寝てしまって助かりました。
途中、お母さんが恋しくなって甘えてくる子もいたけど、
聞くことに集中できたと思います。

今回は、念仏についてのお話でした。

南無阿弥陀仏って称える念仏に、3通りあると言われていました。

万行随一の念仏
万行超過の念仏
自然法爾の念仏

の3つです。そんな種類があるなんて、思いもよらなかったので、
驚きました。
最初の2つは、阿弥陀仏に救われる前の念仏で、
自然法爾の念仏だけが、阿弥陀仏に救われたあと、
お礼の心で称える念仏なんだそうです。

『歎異抄』には、念仏って言葉が20箇所も出てくるけれども、
これまで解説書を書いてきた学者たちは、この区別ができていない。
だから、よく分からないことになる。
高森先生が書かれた『歎異抄をひらく』は、この3通りの念仏を分けて
書かれているので、非常に分かりやすくなっているんだと分かりました。

万行とは、いろいろな善のこと。
仏教で教えられるいろいろな善について教えられた中で、
心に残ったのは、 「無財の七施」のお話です。
お金も物もない人でも、布施(親切)ができると教えられているのです。

○眼施――優しい温かい眼差しで周囲の人々を明るくすること。 
○和顔悦色施―優しい微笑をたたえた笑顔で人に接すること。
○言辞施―優しい言葉をかけること。
○身施――肉体を使って人のため、社会のために働くこと。
○心施――心から感謝の言葉を述べること。
○床座施―場所や席をゆずり合う親切。
○房舎施―求める人、訪ねて来る人があれば一宿一飯の施しを与え、
     その労をねぎらう親切。

これなら、私にもできるかな、って思いました。

和顔悦色施の中には、こわーい顔をして子供を叱ることも入るんだそうです。
確かに、笑顔で叱っていては、子供を正すことはできませんよね。
叱る時は、厳しい顔で真剣に叱る。
これも親の慈悲だと聞きました。
ちょっと子育ての方向性が見えてきたような気もして、育児ノイローゼも
遠ざかっていくように思いました。
今日はお話中、すやすや寝ていてくれたから、
育児ノイローゼにならなかっただけなのかな?
ともあれ、私自身の心が穏やかになっていっているのは、確かなようです。

1月 05

謹んで新春のご挨拶を申し上げます。

正月ムードのせいか、
ちょっと気分が華やいで、育児ノイローゼを忘れています。
今回は、新年にちなんだ歌を紹介したいと思います。

「元旦や おめでたいとは 金剛の
       信を獲たる 人にこそあれ」

正月ともなると、顔を合わせれば、
「明けましておめでとう」
と言い合っています。
でも、本当におめでたいのでしょうか。
おめでたいのは、阿弥陀仏に救われ、金剛の信心を獲た人のみであると、
歌われています。

「如何なる人来りて云い妨ぐとも、
すこしも変らざる心を金剛心という」(後世物語聞書)

 金剛心とは、金剛石、いわゆるダイヤモンドのように、どんな人に攻撃されても、
微動だにしない信心のことをいうそうです。
 私なんて、
「子供がいうことを聞かないのは、
母親の育て方が悪いのよ」
などとだれかに言われたら、それだけで落ち込んじゃうのに。
育児ノイローゼになったのも、他人の言葉に振り回されていたことも
大きいと思うんです。
だれに何を言われても、全く変わらない心になれるなんて、
すごいですよね。
おめでたいわけです。
私もそんな心になりたいなあ。

こんな心の世界があることが広く知られれば、
育児ノイローゼになる人も少なくなるのではないでしょうか。
もう一首、新年にちなんだ歌を教えてもらいました。

 「門松や 冥土の旅の一里塚
    めでたくもあり めでたくもなし」

 トンチで有名な一休さんが、元日の朝に、骸骨を叩きながら、
「めでたい、めでたい」
と京の街を歩き回りました。
それを見た京の人たちは、
「縁起でもない」
と、家の戸を固く閉ざして嫌った。
「目出たいとはこのことを言うのだ」
と一休は、骸骨の大きな目の穴を指さして、万人に必ずやってくる
死を警告したんだそうです。

阿弥陀仏に救われた人は、死に近づくままが弥陀の浄土に向かっているから、
「めでたくもあり」。
まだ救われていない人は、後生の一大事に向かって進んでいるから、
「めでたくもなし」。
 冥土の旅の一里塚の元旦を迎えて「めでたい」とは、
最悪の死が近づいているのに、「めでたい」と言っていること。
頭がオメデタイんじゃないのかって、
ことですよね。
一休さんの痛烈な風刺です。

お正月気分……なんて言っていた私も、頭がオメデタイ一人なんですね。
本当の意味で、めでたい新年を迎えられる人になれるよう、
親鸞聖人の教えを、今年は一生懸命、聞いていきたいと思っています。

12月 01

育児ノイローゼから解放された言葉ということで、続けて書いていますが、
今日は、親鸞会の方から誘われて出掛けた、
その方の自宅での電話座談会で
知らされたことを書きたいと思います。

新型インフルエンザがはやっている今、
多くの人が一堂に会すと感染しやすいですよね。
電話座談会とは、電話回線とウェブを使って配信された映像と音声で、
親鸞聖人の教えについて、質疑応答できるご縁です。

初めての経験なので、ドキドキでしたが、
前々から、育児ノイローゼの相談にも乗ってくださっていた方の家なので、
行ってみることにしました。
この日は、高森先生が『歎異抄をひらく』という本についての質問に
答えてくださるご縁でした。

歎異抄第1章には、

「そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を
 助けんがための願にてまします」

とあります。
これを、『歎異抄をひらく』では、

「なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、
 煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、
 阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである」

と意訳されています。
質問は、
「阿弥陀仏の本願の真骨頂とはどういことか」
でした。

お答えは、
「阿弥陀仏の本願の最大の特徴」
という意味だとのこと。

大宇宙の仏方は、
「悪人よりも善人になれ。助けてあげます」
と誓われている。

ところが、阿弥陀仏は、
「善人よりも悪人を助ける」
と誓われている。
これが、最も素晴らしい、阿弥陀仏の本願の特長の中の特長とのこと。

悪人を助けるのは、ただ阿弥陀仏だけができたことだからです。
だからこそ、大宇宙の仏方から、本師本仏と尊敬される。
人間でも、だれでもできることができても尊敬されませんが、
だれもできないこと(もちろん、善いことですが)ができる人は、
敬われますよね。

悪人を助けるのは、阿弥陀仏しかできないから、
大宇宙の仏方は、口をそろえて、阿弥陀仏を称賛されていると
聞かせていただきました。

これを親鸞聖人は、

「無明の闇を破するゆえ
 智慧光仏となづけたり
 一切諸仏三乗衆
 ともに嘆誉したまえり」
     (浄土和讃)

とおっしゃっています。

無明の闇とは、すべての人の苦しみの元凶。
それを破る力があるから、
阿弥陀仏は、智慧光仏といわれる。
大宇宙のすべての仏も、仏のさとりまでいっていない菩薩なども、
残らず、阿弥陀仏をほめたたえている、と教えられています。

善人が助かるなら、分かりますが、
悪人が助かる。
大変なことだと思いました。
だって、私のような者でも、助かるってことでしょ。
育児ノイローゼになって、くよくよしているような者でも、
助かるんですよね。

阿弥陀仏の本願って、すごい!

また、参加したら、知らされたことを書いていきたいと思います。

11月 04

私の育児ノイローゼから解放された言葉、

「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

という、親鸞聖人の書かれた『正信偈』のお言葉には、
まだまだ、ビックリするような意味があったんです。

 今まで、仏教は、葬式や法事をしたりする、死んでから用事のあるもので、
「死んだら極楽、死んだら仏」
と、死後の夢物語を説いているものだろうと誤解していました。

ところが、親鸞聖人は、このお言葉で、

「阿弥陀仏に救われるのは、死んだ後ではないんだよ。
 平生生きている時なんだよ」

と言われていたんですよね。
『正信偈』を書かれたのは、当然ながら、親鸞聖人が生きておられた時。

その『正信偈』に、

「親鸞、救われた、助けられた」

と言われているのですから、阿弥陀仏に救われるのは、死んでからではない、
生きている時、と分かります。

さらに、救われる、という言葉も聞くけれど、
そんなハッキリするものではないだろう、
いつとはなしに有り難くなった心境を言っているのだろう、
って思ったりもしていたんですが、
この思いも間違っていたことも知らされました。

この『正信偈』のお言葉で、

「阿弥陀仏の救いは、ハッキリする」

と、分かったんです。
ハッキリしないことを親鸞聖人が、
「救われたぞ、助けられたぞ」
と、ハッキリ言われるはずがないですから。

聖人が何度もハッキリ叫ばれているのは、
阿弥陀仏の救いは、
「助かったのやら、助かってないのやら、分からん」
という曖昧なものではなく、
ハッキリするからだったんです。

以前の私のように仏教を誤解している人って
多いんじゃないかなあ。

そんな誤りを、『正信偈』の冒頭に、

「親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ、
 親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ」

と、自らのことをお書きになることによって、

「仏教は死んだらお助けじゃないんだよ、
 阿弥陀仏の救いは生きている現在ただ今なんですよ、
 救われたらハッキリするのだよ」

と、糾してくださったのだと聞きました。
 
こんな世界があったなんて。

親鸞聖人の教えを知るほどに、育児ノイローゼは徐々に遠き、

やがて、育児ノイローゼから解放された!

っていえるくらいにまでなったんです。

10月 01

私の育児ノイローゼから解放された言葉ということで、

「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

という、親鸞聖人の書かれた『正信偈』のお言葉を先月、紹介しました。
うちも浄土真宗だったから、実家で葬式や法事をした時は、
これ、読まれていたはずなんですが、そのころは、
お経の一つなのかなって思っていたのです。
だって、何の説明もないんだもん。
素人には分かりませんよね。

ちなみに、お経というのは、お釈迦さまが説かれたご説法を記録したもの
だけをいうのだそうです。
『正信偈』は親鸞聖人が書かれたものだから、お経ではないんですよね。

それと、浄土真宗の家に生まれながら、なあんにも知らなかったんだなあ、
と思ったひとつが、
無量寿如来、
不可思議光如来という別名をもつ、
阿弥陀仏のことです。

考えてみると、実家の本尊は、阿弥陀仏だったので、
お仏壇に向かうたびに、手をあわせていたはずですが、
何という仏さまかも分かっていませんでした。
仏さまといったら、阿弥陀仏もお釈迦さまも、大日如来も、
薬師如来も、みんな同じだろう、と思っていたんです。

ところが、それが違うということなのです。

「ここに阿弥陀如来と申すは、
 三世十方の諸仏の本師本仏なり」

浄土真宗の中興上人といわれる蓮如上人のお言葉です。
これは、お釈迦さまが経典に説かれていて、
それを、親鸞聖人も教えられ、そのとおりに、蓮如上人も
このように言われたんだそうです。

地球上に現われられた仏さまは、
お釈迦さまだけですが、
大宇宙には、地球のような世界が数え切れないほどある。
地球上に、お釈迦さまが現われられたように、
大宇宙のそれらの世界にも、数え切れないほどの仏さまが
現われられている。
それを、十方諸仏とか、三世十方の諸仏という。

本師本仏とは、本師も本仏も先生という意味なので、
阿弥陀仏は、大宇宙の仏さまの先生だということです。
お釈迦さまも十方諸仏のお一人なので、
阿弥陀仏とお釈迦さまの関係は、
先生と生徒、師匠と弟子の関係
なのだと聞きました。

知らなかったなあ。
お釈迦さまに先生がおられたなんて。
皆さんは、知ってました??
浄土真宗の家の人でも、結構、知らないんじゃないんですかね。

まあ、こんなことが分かったのも、
育児ノイローゼになったおかげなのかもしれません。
だって、育児ノイローゼにならなかったら、
悩んで、こんな話を聞いてみようなんて、
きっと思わなかったでしょうから。

子供は、相変わらず、夜泣きはするし、寝不足ではありますが、
ちょっぴり心の平安を取り戻し始めたような気がしています。

9月 03

私の育児ノイローゼは親鸞会親鸞会で知ることができたある言葉がきっかけで、心が解放されたような気持になったと前回、書きました。

その言葉というのは、以前にも少し触れましたが、

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

です。
これは、親鸞聖人の書かれた『正信偈』冒頭にあり、浄土真宗の人たちは、この『正信偈』を朝夕、拝読していて、とても親しんでいる言葉だそうです。
実を言うと、私の生家も真宗だったんですよね……。
といっても、特に両親が熱心というわけでもなく、縁があるのは、葬式法事の時だけだったので、育児ノイローゼになって、親鸞会の人と出会うまでは、全く関心がありませんでした。

ところが、この2行に、ものすごい意味があると、分かったんです。

「親鸞は、人生の目的を達成したぞ!
 親鸞は、本当の幸福に救われたぞ!」

と、無限に叫んでも足りないほどの喜びを表された言葉だったんです!!

「無量寿如来」も、「不可思議光(如来が省略されている)」も、
阿弥陀如来という仏さまの別名だそうです。
「帰命」は、中国の昔の言葉で、「救われた」という意味、
「南無」は、インドの昔の言葉で、「助けられた」という意味。
だから、この2行は、

「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ!」
 親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ!」

と同じことを繰り返されていることになります。

どんな時に私たちは、同じことを繰り返すでしょうか。
受かりたかった学校に合格した時、
「やった!やった!やった!」
って叫びますよね。
「やった」
と1回だけってことは、まずないんじゃないでしょうか。
私は、大学受験は経験してないんですけど、
高校に受かった時、やっぱり、何度も「やった!やった!やった!」
と言いました。
それから、久しぶりに実家に帰省した時なんかも、
「おお、来たか、来たか、来たか」
と、両親は喜んでくれます。
待って待って待っていたものが来た時、
うれしいことが実現した時、その喜びを繰り返さずにおれないですよね。

親鸞聖人は、2回どころか、無限に言いたいほどの喜びを、
ここに表されていると聞いたのです。

〝言っても言っても言い尽くせないほどの喜び?〟
〝そんな世界があるの!?〟

最初は、信じられない気持ちだったのですが、
聞けば聞くほど、底知れぬ世界なんだと分かってきて、
そしたら、なんだか、私の育児ノイローゼなんて、
ちっぽけなことに思えてきたのでした。
まあ、現実は、それほど甘くはないですけれど……。

6月 30

育児ノイローゼと鬱病

育児ノイローゼとうつ病By みーちゃん コメントは受け付けていません。

私の育児ノイローゼは親鸞会で知ることができた親鸞聖人の言葉がきっかけで、今まで育児に雁字搦めにされて身動きのとることができなかった私の心が解放されたような気持になったことを覚えています。
それまでは、このままずっと育児ノイローゼに悩まされて老後まで育児ノイローゼをかかえながら過ごすのか?なんて思っていたのです・・・。

しかし、私の育児ノイローゼはただ単に育児ノイローゼだけではなかったようです。
育児によって溜まったストレスが原因でうつ病も発症していたようです。
病院の先生がいうには、うつ病と育児ノイローゼの違いというのは普通の人が見ても判断がつかない難しいものだそうなんです。

育児ノイローゼの症状としては睡眠障害や思考能力・食欲・物欲に関する関心の低下やパニック障害、食欲の異常や引きこもりといったような様々な症状があるようです。
これらの育児ノイローゼ症状を改善する方法としては夫や家族の支えが一番なのです。

自分が実際に体験して分かったことなのですが、「自分一人で子供を育てている」といった気持になってしまい、子供のことで夫に相談しても相談にのってくれなかったり真剣に話を聞いてくれなかったり、時には自分一人の時間をもつことが出来ていたなら育児ノイローゼになることはなかったのではないでしょうか?!
今では夫も私が育児ノイローゼで悩んでいるということを理解してくれているため、育児には協力的で私の話も聞いてくれます。

でも・・・
これがもう少し早ければよかったのに・・・
そうしたら育児ノイローゼにならなくて済んだはず・・・。
いまさら育児ノイローゼのことを悔やんでも仕方無いのですが・・・。

次回からは私が育児ノイローゼから解放されるきっかけになった親鸞聖人の教えに学んだことを紹介していきたいと思います。

6月 15

親鸞会で教えを学ぶ知人との出会いが私を育児ノイローゼから立ち直らせてくれた!と今となってははっきりと言えます。
あの頃の私は、この苦しみがずっと続くのかとばかり考えていて、子供をかわいい、愛おしいという気持ちがどこかかけていたように思います。
子供が泣けば気が狂ったように大声で叫びものにあたり、ひどい時では子供自身に当たってしまっていた私。
その瞬間は自分が自分でないような状態なので、叩いていることにすら罪悪感を感じない。

しかし、ようやく気が収まるころには、子供に対しての罪悪感でいっぱいになり、胸が張り裂けそうになる。
この時は「もうやめよう」「母親失格だ」なんて反省はするももの、子供が泣くとまたイライラのスイッチがONになってしまう・・・・。

今でも時々、子供を保育園に迎えに行く時なんて億劫になるときがある。
子供ができなくて悩んでいる人には贅沢な悩みだと思われるかも知れませんが、子供が厄介者のように思えてしまって・・・
気持ちが滅入ってしまうんですよね?!
こんなことじゃ子供の教育というか性格に悪影響があるのではないかと心配ではあるけれど、でもなんだか子供のことを考えると滅入ってしまう・・・。

こうなったらやはり親鸞会へ人生相談をしに行った方がいいのでしょうか?
仏教は、心が専門。心の問題について、きっと解決の道を教えてくれると期待していいんじゃないかな、と思うんです。
そうすることで、今の私が救われるんじゃないかと思うのです。
何かに頼ろうとするなんて弱い者のすることなんでしょうか?!
だったらそれでもいいです。
なんとか子の育児ノイローゼから逃れることができ、子供とちゃんと向き合えるなら何にでも頼り縋りたい気持ちでいっぱいです。

Copyright © 育児ノイローゼと私 All Rights Reserved.