7月 01

育児ノイローゼから解放された言葉(12)

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今回も、育児ノイローゼから解放された言葉ということで、続けて書きます。
娘を連れてのテレビ座談会、重ねて聞かせていただいています。

先月末にお聞きした中で、心に残ったのは、

「全人類は、

  〝この坂を越えたなら、幸せが待っている〟

    という信心をもって生きている」

というお言葉でした。

すべての人は、何かを信じなければ生きていけない。
何かを頼りに、何かを心の明かりにして、生きています。

今の私だったら、さしずめ、子育てかなあ。
育児ノイローゼがすっかり解消して、
順調に子育てできて、この子が立派に成人したら……と夢を抱いています。
きっと人の親だったら、私のような育児ノイローゼにかかったことの
ある人もない人も、共通している夢じゃないかな。

ワールドカップで8強入り、という目標を持っている選手、
(今回は、PK戦で負けちゃって、惜しかったですね)
参院選の当選を悲願にしている人、
英検合格、大学合格、司法試験合格、
恋人がほしい、あの人と一緒になりたい、こいつと離婚できたら、
100万の借金を返せたら、住宅ローンを完済できたら、
500万貯まったら、宝くじが当たったら、
課長になりたい、店長になりたい、商売繁盛などなど、
もっている目標、生き甲斐は、
十人十色とはいえ、みんな、
「○○したら、幸せになれる」
と思って生きている。

坂だから、上るのは苦しい。
その苦しみを我慢して生きているのは、その坂を越えたなら、
幸せになれると信じているから。

ところが、この歌の続きは、

 
「そんな言葉を信じて、超えた七坂四十路坂」。

 

坂を越えたら、また、坂だった。

「越えなばと思いし峰に 来てみれば


      なお行き先は 山路なりけり」

という別の歌にもあるように、坂を越えても、
なお、急な坂が待っているだけだった。
その坂を越えたなら……とまた、上っていく。
この繰り返しが死ぬまで続く。
まるで円形トラックをグルグル回っているように。

仏教では、こういうのを

「流転輪廻」

「輪転」

というんだそうです。
有限の命を持った人間が、無限に続く円周を回っている。
これでは、悲劇あるのみです。

その悲劇に気づいた人が、自殺していく。
あるいは、「本当の人生の目的が知りたい」という心の渇きを
癒したいと、オウムなどの邪教に迷っていく。

この苦しみの輪、流転輪廻から出離する道を教えられたのが、
仏教だとお聞きしました。

「生死の苦海ほとりなし
 久しく沈めるわれらをば
 弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せてかならずわたしける」
     (親鸞聖人)

苦しみの波に溺れている、ずーっと昔から溺れている私たちを
阿弥陀仏の本願の船だけが、乗せて必ず幸せの身に救ってくだされるのだ、
と、親鸞聖人が断言されています。

船のことは、まだよくは分からないけれど、
グルグル流転輪廻していることは、分かるような気がします。
育児ノイローゼも、その輪廻の一つだと思いますし。

そこから脱出できるなら、してみたい。

これも、それが出きると知れば、万人が望むことでしょう。

 

ほんと、仏教って、底知れず深い教えなんですねえ。
また、重ねてお聞きしたいと思っています。

6月 01

育児ノイローゼから解放された言葉ということで、続けて書いています。
ついこのあいだも、娘を連れて、テレビ座談会を聞かせていただきました。

特に心に残ったのが、

「生きる目的」

「生きる目標」「生きがい」

との違いです。

初めは、なんのことやら、よく分かりませんでした。
「生きる目的」「生きる目標」「生きがい」

みーんな同じに思えたからです。
それが、ぜんぜん違う点が、3つもあるんですね。

    生きる目的は、
    「万人共通唯一」ですが、
    生きる目標は、
    「人それぞれ」

    生きる目的には、
    「完成がある」けれども、
    生きる目標は、
    「死ぬまで求道」

    生きる目的は、
    「永遠に続く」が、
    生きる目標は、
    「続かない」「色あせる」。

生きる目標というのは、
「貯金」「マイホーム」「大学合格」「部長昇進」「旅行」……、
私のような主婦なら、
「この子を立派に育てあげること」
などなど。
「晩酌」「睡眠」「入浴」なんかを「生きがい」にして
生きている人もあります。
こんな風に、人それぞれ、違うのが、「生きる目標」です。

バルセロナオリンピックで、有名になった岩崎恭子選手は、
14歳で、金メダルを獲得した時、
「今まで生きてきた中でいちばん幸せ」
と言いました。でも、次のアトランタ五輪では苦戦し、
「ああバルセロナで〝いちばん幸せ〟なんていわなきゃよかった。
 金メダルなんていらない、と思ったくらいです」
と語っています。

彼女にとって、水泳は「生きがい」であり、「生きる目標」
だったに違いないと思いますが、
「いちばん幸せ」
が、
「金メダルなんていらない」
に変わってしまう。
「生きる目標」による喜びは、続かないことを
象徴しています。
水泳に完成ということもありません。
ほかの道でも、同様で、死ぬまで求道です。

ところが、「生きる目的」は、全く異質だと聞きました。
「生きる目的」を成就なされた親鸞聖人のお言葉を
教えていただきました。

「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし」

〝ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求めつづけてきた歓喜の生命を得ることができた。
これはまったく、弥陀の強いお力によってであった〟

噫……と、「生きる目的」が完成したことを
言葉にならぬ言葉で表しておられます。
そして、多生、億劫の間、求め続けた目的ということで、
時間的に普遍であることを示し、同時に、空間的にも貫いていることを
示されて、万人共通の目的があることを明言なされているのだと
お聞きしました。
その喜びは、永遠に変わらぬ「絶対の幸福」になった喜びです。

スケールの違いに、あ然とします。
万人共通ということだから、
そんな喜びの身に、私もなれるってことなんですね!

どんどん成長して、動きも激しくなっていく娘に、目が離せず、
イライラすることはありますが、
育児ノイローゼに陥ることはなくなってきました。
こんな大事なお話を聞いていたら、
だれでも、育児ノイローゼなんて、言っていられなくなるのではないかな。

親鸞聖人のみ教えには、深さの知れない深さがあるのだなあ、
と強く感じたご縁でした。

5月 10

皆さんは、ゴールデンウイーク、どんな風に過ごされましたか。
前半は、家族で自然を満喫しましたが、
4日、5日は、テレビ座談会を聞かせていただきました。
ただ遊ぶだけで終わっていたら、
また、育児ノイローゼになってしまったかもしれませんが、
尊いお話を聞かせていただくと、
心がとっても安定するのを感じます。

今回は、特に、「信心」ということについて、目からウロコの
話をお聞きしました。

「信心」と言ったら、仏や神を信ずることだと思いがちですが、
人間、生きているかぎり、必ず何かを信じている。
それは、自分の命だったり、お金や名誉、地位、夫や子供だったり、
いろいろですが、何かをたよりにし、あて力にして生きていると
聞きました。
「オレは無信心だ」と言っている人でも、やっぱり自分の能力を
信じていたり、自分の信念を信じていたりします。
そういう意味で、

全人類は、何らかの「信心」を持っていると
言える

んですね。

その「信心」は、

「信ずる対象」

「信ずる人の心」

で成り立っている。
この二つの関係を分析すると、次の三通りがあると聞きました。

 

     (信ずる対象)    (信ずる人の心)
       不実         不実
       真実         不実
       真実         真実

 

この世のすべてのものは、火宅無常といわれるように、
常がない、続かない、今日あって明日なき幸福です。
お金も地位も名誉も、家族、友人、健康も、
無常のものです。そういう不実なものを信じていても、幸せにはなれない。
不実なものを不実な心で信じる信心は、「自力の信心」というのだそうです。

いつでもどこでも変わらぬ真実の仏、阿弥陀仏を信じていても、
それを信ずる心が、変わりどおしの自分の心だと、
やはり幸せにはなれません。
信じられるように思える時は、いいけれども、
疑いの心がムクムクでてくると、不安になってしまう。
信じる対象が真実でも、信じる人の心が不実なので、
これも、「自力の信心」と言われます。

信ずる対象も阿弥陀仏という真実の仏、
それを信ずる人の心も、真実であってこそ、本当の幸福になれる。
これが、「他力の信心」だと教えていただきました。

なぜ、コロコロ変わりどおしの人間の心が、真実の心になれるのかというと、
阿弥陀仏は、人間の心が不実であることをとおにお見通しで、

 
信ずる心までも、与えてくださる

 

からだそうです。
真実の仏である阿弥陀仏から、「真実の心」を賜って、
賜った「真実の心」で「真実」の阿弥陀仏を信ずるから、
もう変わらない心になれるのです。

蓮如上人は、

「信心という二字をばまことの心と読めるなり、
まことの心と読む上は凡夫自力の迷心に非ず全く仏心なり」

とこれをおっしゃって、
「他力の信心」は迷った人間の心ではなく、
弥陀から賜る仏心だと明らかにされています。

信ずる心くらいは、こちらで用意しなければならないのが普通でしょうに、
信ずる心まで準備なされて、与えてくだされるなんて、
なんてすごいのでしょう!

コロコロ、コロコロ、変わりどおしで、
ちょっとしたことで、すぐに育児ノイローゼかな、
なんて思っている私のような者でも、
そんな真実の心を賜れたら、生まれ変われるのかなあ。

あれっ?
「他力の信心」を賜っても、不実のものを不実の心で信ずるという
「自力の信心」はなくならないとも聞きました。
これは、人や物を疑う心、煩悩なので、他力の信心を獲ても、なくならない。
善知識方がいう「自力の信心」は、阿弥陀仏を不実の心で信ずる信心のこと。
これは、阿弥陀仏を疑う心、「無明の闇」といわれる心で、
「他力の信心」を獲たら、なくなるそうです。

ということは、育児ノイローゼはなくならないのかなあ??

でも、こんなすごい教え、深さの知れぬ奥深い教えをお聞きしていると、
やっぱりなくなりそうな気がしてくるこのごろです。

4月 02

1歳になったばかりの娘を連れて、テレビ座談会、続けて聞かせて
いただいています。
そのおかげか、育児ノイローゼに陥ることもなくなってきました。

最近、聞かせていただいたお話に、
「私がこの世に生を受けたのは、
どんな因縁によるのか」
という内容があって、すっごく心に残りました。

仏教の根幹は「因果の道理」
すべての結果には必ず原因がある。
原因なしの結果は、万に一つ、億に一つもない。

太平洋のまん中に飛行機が墜落するなど、原因不明、ということはあっても、
原因がなかったわけではない。
結果が起きるには、因だけではなくて、縁も必要。
例えば、モミだねという(因)に、太陽の光や水などの(縁)が加わって、
米という結果ができるようなものです。

では、私は、どんな因縁で、この世に誕生したのか。
父が(因)で、母が(縁)となって、私が生まれた、と考える人が
多いのではないでしょうか。
正直、私も、そんな風に思っていました。

でも、それじゃあ、兄弟が皆同じになるはずです。
因と縁が全く同じなんですから。

実際は、兄弟、双子といっても、全く違う。
それはなぜか。

両親の体調のよかった若い時に生まれた兄は、できがよく、
両親が若くなくなった時に生まれた妹は、できが悪かった、
という考えもありますが、
では、なぜ兄の時に、妹は生まれなかったのか。
先に生まれたらよかったのに……、
となると、説明がつきません。

仏教では、(因)は、私自身の過去世の業で、
(縁)が父母だと教えられているそうです。

  ─────
  │  │  │
  │  │  │
  過  │ 父、母
  去  │
  の  │
  業  │
     
     │
     私

過去世の業というのは、私が生まれてくる前にやってきた行いのことです。
私の魂の歴史というのは、この世70年、80年などという短いものではなくて、
「昿劫」 とか、 「多生」 とかいわれる、永い永い歴史があるとも聞きました。
そんな歴史のある私の業が、両親と結びついて、今の私となったのですね。

してみると、私の娘も、よほどの因縁があって、私の子供として
生まれてきたんだなあ……と思いました。
そんな過去世からの深い深い因縁があって、今、親子となっているのですから、
育児ノイローゼなんかになっている場合じゃないって思いました。

そんな昿劫多生の間、求めてきた目的を果たすために
人間に生まれてきたと聞きました。
仏法って、聞かせていただけばいただくほど、深さの知れない教えなんですね。

育児ノイローゼが縁となって、
今、こんな素晴らしい教えを聞けるようになったのだから、
育児ノイローゼも有難い縁だったといえるのかなあ。

3月 01

 親鸞会の方のおうちで、またまたテレビ座談会を聞かせていただきました。
 このごろは、娘を連れていくと、そこに集まってくる子供たちが、娘をとっても
かわいがってくれるんです。
 娘がいちばん小さいからかな。一時的にでも、子育てから解放されることにもなり、
一石二鳥。育児ノイローゼになりそうな気がしても、ちょうどいいタイミングで
ご縁があるので、助かっています。

 そこで、それこそ、育児ノイローゼが吹きとんじゃうようなお話を聞きました。
 その日の質問は、

 「『生きる目的が最も大事』と話すと、
  『まず生活の基盤を整えることが大事だ』
  と言われたのですが、どう話せばよかったでしょうか」

 という内容でした。それを聞いて、
 「えっ、生活基盤が大事でしょ」
 って思っちゃったのですが、
 そのお答えに、うなってしまいました。

 「もし、太平洋のまん中に放り出されたら、あなた、どうしますか?」


 と尋ねられたのです。

 太平洋のまん中なんて……。水と空しか見えないですよね。
 とりあえず、泳ぐしかないかな。沈んだら困るし、
 って思っていたら、

 「どこへ向かって泳がれるんですか」。

 そう言われれば、まず、360度見渡して、
 どこかに船がないか、島がないかと確認するなあ、と思いました。
 ということは、まず大事なのは、「方角」「目的地」です。

 「イロイロの泳ぎ方、ゆっくり泳ぐとか、スピードを出すとか。
  平泳ぎか、クロールか、背泳ぎか。
  これは、生き方、どう生きるかに当たります。
  生きる手段です。
  どこに向かって泳ぐか。これが、なぜ生きるか。人生の目的です。
  生活基盤など、『どう生きるか』よりも、『なぜ生きるか』が
  大事だと分かるでしょう」

 うーん。なるほど。そう言われれば、そのとおりです。
 私は、育児ノイローゼとか、主人のこととか、いろんな生き方、
 どう生きるかにばかりとらわれてきたけれど、
 本当に大事なのは、「なぜ生きる」だったんですね~。

 なんだかとってもスッキリした気分になりました。
 今度こそ、育児ノイローゼ、完全克服できるかも!?
 子供たちにあやされて、これまた、ご機嫌の娘とともに、
 私も、気分上々で帰宅しました。

2月 01

 夕方5時ごろでも、明るくなってきましたね。
 大雪も遠のいたようで、育児ノイローゼもこのまま遠のいてくれると
いいなって思っています。
 娘を連れて行った親鸞会の方のおうちで、また、テレビ座談会を聞かせていただきました。

 前回に続いて、「3通りの念仏」についてのお話でした。
 そこで使われている『歎異抄をひらく』という著書に、3通りの念仏について分かりやすく書かれています。

 万行髄一の念仏……「諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って
              称えている念仏

 万行超過の念仏……「諸善とはケタ違いに勝れた大善根が念仏だ」
               と専ら称える念仏

 自然法爾の念仏……弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏

 念仏を称える心で分けられているんですね。

 涙でも、
うれしくて流すこともあれば、
悲しくて泣くこともある。
くやしくって流すこともある
ようなものだとお聞きしました。
確かにそうですよね。科学的に分析したら、みんな塩分と水分なんでしょうけど、
心は全く違います。

室町時代、親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人といわれる方は、
『御文章』に、

「まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、それはおおきに覚束なきことなり」

念仏に3通りあるってことを知らないで、ただ南無阿弥陀仏とばかり
称えていたら助かると思うのは、間違いだよ、
って、何箇所も教えられているそうです。

こんなにハッキリ書かれているのに、念仏に3通りあるなんて、
親鸞会の方とご縁があるまで、ぜんぜん知らなかった。
うちも浄土真宗なのに……。
法事なんかでも、親鸞聖人の教えについて、
一つも聞かされたこと、ありませんでした。

それにしても、
「弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない」
といわれる「自然法爾の念仏」を称える喜びって、
どれほどなのでしょう。

そんな心になったら、育児ノイローゼなんて、全く問題にならなくなるのかな。
そんな念仏称える身になってみたいなあって思うこのごろ。
育児ノイローゼも、どんどん遠のいていっているみたいです。

1月 19

育児ノイローゼから解放された言葉に関連して、
昨年、親鸞会の人から誘われて行った電話座談会のことを書きました。
(最近は、映像配信が主流になっているので、テレビ座談会と言っているんだそうです)
年明けて、
「うちなら子連れでも、テレビ座談会、聞けますよ」
と言ってくださる方があり、お言葉に甘えて、娘を連れて行って見ました。

そこに集まっていたのは、子供さんを連れたお母さん方ばかり。
(その家のお父さんもいましたけど)
とっても、にぎやかでした。
大きな子供はオモチャの置いてある部屋で遊ばせておいて、
大人は別の部屋で聞いたんです。
うちの子はまだ小さいので、そばにいさせてもらいましたが。
幸い、いつもお昼寝する時間だったので、寝てしまって助かりました。
途中、お母さんが恋しくなって甘えてくる子もいたけど、
聞くことに集中できたと思います。

今回は、念仏についてのお話でした。

南無阿弥陀仏って称える念仏に、3通りあると言われていました。

万行随一の念仏
万行超過の念仏
自然法爾の念仏

の3つです。そんな種類があるなんて、思いもよらなかったので、
驚きました。
最初の2つは、阿弥陀仏に救われる前の念仏で、
自然法爾の念仏だけが、阿弥陀仏に救われたあと、
お礼の心で称える念仏なんだそうです。

『歎異抄』には、念仏って言葉が20箇所も出てくるけれども、
これまで解説書を書いてきた学者たちは、この区別ができていない。
だから、よく分からないことになる。
高森先生が書かれた『歎異抄をひらく』は、この3通りの念仏を分けて
書かれているので、非常に分かりやすくなっているんだと分かりました。

万行とは、いろいろな善のこと。
仏教で教えられるいろいろな善について教えられた中で、
心に残ったのは、 「無財の七施」のお話です。
お金も物もない人でも、布施(親切)ができると教えられているのです。

○眼施――優しい温かい眼差しで周囲の人々を明るくすること。 
○和顔悦色施―優しい微笑をたたえた笑顔で人に接すること。
○言辞施―優しい言葉をかけること。
○身施――肉体を使って人のため、社会のために働くこと。
○心施――心から感謝の言葉を述べること。
○床座施―場所や席をゆずり合う親切。
○房舎施―求める人、訪ねて来る人があれば一宿一飯の施しを与え、
     その労をねぎらう親切。

これなら、私にもできるかな、って思いました。

和顔悦色施の中には、こわーい顔をして子供を叱ることも入るんだそうです。
確かに、笑顔で叱っていては、子供を正すことはできませんよね。
叱る時は、厳しい顔で真剣に叱る。
これも親の慈悲だと聞きました。
ちょっと子育ての方向性が見えてきたような気もして、育児ノイローゼも
遠ざかっていくように思いました。
今日はお話中、すやすや寝ていてくれたから、
育児ノイローゼにならなかっただけなのかな?
ともあれ、私自身の心が穏やかになっていっているのは、確かなようです。

1月 05

謹んで新春のご挨拶を申し上げます。

正月ムードのせいか、
ちょっと気分が華やいで、育児ノイローゼを忘れています。
今回は、新年にちなんだ歌を紹介したいと思います。

「元旦や おめでたいとは 金剛の
       信を獲たる 人にこそあれ」

正月ともなると、顔を合わせれば、
「明けましておめでとう」
と言い合っています。
でも、本当におめでたいのでしょうか。
おめでたいのは、阿弥陀仏に救われ、金剛の信心を獲た人のみであると、
歌われています。

「如何なる人来りて云い妨ぐとも、
すこしも変らざる心を金剛心という」(後世物語聞書)

 金剛心とは、金剛石、いわゆるダイヤモンドのように、どんな人に攻撃されても、
微動だにしない信心のことをいうそうです。
 私なんて、
「子供がいうことを聞かないのは、
母親の育て方が悪いのよ」
などとだれかに言われたら、それだけで落ち込んじゃうのに。
育児ノイローゼになったのも、他人の言葉に振り回されていたことも
大きいと思うんです。
だれに何を言われても、全く変わらない心になれるなんて、
すごいですよね。
おめでたいわけです。
私もそんな心になりたいなあ。

こんな心の世界があることが広く知られれば、
育児ノイローゼになる人も少なくなるのではないでしょうか。
もう一首、新年にちなんだ歌を教えてもらいました。

 「門松や 冥土の旅の一里塚
    めでたくもあり めでたくもなし」

 トンチで有名な一休さんが、元日の朝に、骸骨を叩きながら、
「めでたい、めでたい」
と京の街を歩き回りました。
それを見た京の人たちは、
「縁起でもない」
と、家の戸を固く閉ざして嫌った。
「目出たいとはこのことを言うのだ」
と一休は、骸骨の大きな目の穴を指さして、万人に必ずやってくる
死を警告したんだそうです。

阿弥陀仏に救われた人は、死に近づくままが弥陀の浄土に向かっているから、
「めでたくもあり」。
まだ救われていない人は、後生の一大事に向かって進んでいるから、
「めでたくもなし」。
 冥土の旅の一里塚の元旦を迎えて「めでたい」とは、
最悪の死が近づいているのに、「めでたい」と言っていること。
頭がオメデタイんじゃないのかって、
ことですよね。
一休さんの痛烈な風刺です。

お正月気分……なんて言っていた私も、頭がオメデタイ一人なんですね。
本当の意味で、めでたい新年を迎えられる人になれるよう、
親鸞聖人の教えを、今年は一生懸命、聞いていきたいと思っています。

12月 01

育児ノイローゼから解放された言葉ということで、続けて書いていますが、
今日は、親鸞会の方から誘われて出掛けた、
その方の自宅での電話座談会で
知らされたことを書きたいと思います。

新型インフルエンザがはやっている今、
多くの人が一堂に会すと感染しやすいですよね。
電話座談会とは、電話回線とウェブを使って配信された映像と音声で、
親鸞聖人の教えについて、質疑応答できるご縁です。

初めての経験なので、ドキドキでしたが、
前々から、育児ノイローゼの相談にも乗ってくださっていた方の家なので、
行ってみることにしました。
この日は、高森先生が『歎異抄をひらく』という本についての質問に
答えてくださるご縁でした。

歎異抄第1章には、

「そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を
 助けんがための願にてまします」

とあります。
これを、『歎異抄をひらく』では、

「なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、
 煩悩の激しい最も罪の重い極悪人を助けるために建てられたのが、
 阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである」

と意訳されています。
質問は、
「阿弥陀仏の本願の真骨頂とはどういことか」
でした。

お答えは、
「阿弥陀仏の本願の最大の特徴」
という意味だとのこと。

大宇宙の仏方は、
「悪人よりも善人になれ。助けてあげます」
と誓われている。

ところが、阿弥陀仏は、
「善人よりも悪人を助ける」
と誓われている。
これが、最も素晴らしい、阿弥陀仏の本願の特長の中の特長とのこと。

悪人を助けるのは、ただ阿弥陀仏だけができたことだからです。
だからこそ、大宇宙の仏方から、本師本仏と尊敬される。
人間でも、だれでもできることができても尊敬されませんが、
だれもできないこと(もちろん、善いことですが)ができる人は、
敬われますよね。

悪人を助けるのは、阿弥陀仏しかできないから、
大宇宙の仏方は、口をそろえて、阿弥陀仏を称賛されていると
聞かせていただきました。

これを親鸞聖人は、

「無明の闇を破するゆえ
 智慧光仏となづけたり
 一切諸仏三乗衆
 ともに嘆誉したまえり」
     (浄土和讃)

とおっしゃっています。

無明の闇とは、すべての人の苦しみの元凶。
それを破る力があるから、
阿弥陀仏は、智慧光仏といわれる。
大宇宙のすべての仏も、仏のさとりまでいっていない菩薩なども、
残らず、阿弥陀仏をほめたたえている、と教えられています。

善人が助かるなら、分かりますが、
悪人が助かる。
大変なことだと思いました。
だって、私のような者でも、助かるってことでしょ。
育児ノイローゼになって、くよくよしているような者でも、
助かるんですよね。

阿弥陀仏の本願って、すごい!

また、参加したら、知らされたことを書いていきたいと思います。

11月 04

私の育児ノイローゼから解放された言葉、

「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」

という、親鸞聖人の書かれた『正信偈』のお言葉には、
まだまだ、ビックリするような意味があったんです。

 今まで、仏教は、葬式や法事をしたりする、死んでから用事のあるもので、
「死んだら極楽、死んだら仏」
と、死後の夢物語を説いているものだろうと誤解していました。

ところが、親鸞聖人は、このお言葉で、

「阿弥陀仏に救われるのは、死んだ後ではないんだよ。
 平生生きている時なんだよ」

と言われていたんですよね。
『正信偈』を書かれたのは、当然ながら、親鸞聖人が生きておられた時。

その『正信偈』に、

「親鸞、救われた、助けられた」

と言われているのですから、阿弥陀仏に救われるのは、死んでからではない、
生きている時、と分かります。

さらに、救われる、という言葉も聞くけれど、
そんなハッキリするものではないだろう、
いつとはなしに有り難くなった心境を言っているのだろう、
って思ったりもしていたんですが、
この思いも間違っていたことも知らされました。

この『正信偈』のお言葉で、

「阿弥陀仏の救いは、ハッキリする」

と、分かったんです。
ハッキリしないことを親鸞聖人が、
「救われたぞ、助けられたぞ」
と、ハッキリ言われるはずがないですから。

聖人が何度もハッキリ叫ばれているのは、
阿弥陀仏の救いは、
「助かったのやら、助かってないのやら、分からん」
という曖昧なものではなく、
ハッキリするからだったんです。

以前の私のように仏教を誤解している人って
多いんじゃないかなあ。

そんな誤りを、『正信偈』の冒頭に、

「親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ、
 親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ」

と、自らのことをお書きになることによって、

「仏教は死んだらお助けじゃないんだよ、
 阿弥陀仏の救いは生きている現在ただ今なんですよ、
 救われたらハッキリするのだよ」

と、糾してくださったのだと聞きました。
 
こんな世界があったなんて。

親鸞聖人の教えを知るほどに、育児ノイローゼは徐々に遠き、

やがて、育児ノイローゼから解放された!

っていえるくらいにまでなったんです。

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