5月 08

薄桃色にけぶっていた桜も、あっという間に葉桜になってしまいました。
長い人で9連休の人もあったというゴールデンウイーク、
皆様、いかが過ごされたでしょうか?
私といえば、娘が4月28日、まさにこれから休み!というその時に、
38度の熱を出し、娘がようやく治ってきたかな、
と思ったら、今度は、私が39度でダウン。
自分の体がつらいのに、子供は容赦いたしません。
これが食べたい、これで遊んでと、
助けて~、育児ノイローゼになっちゃうよ~って感じでした。

後半の最終日、5月6日に、やっと二千畳で、
親鸞聖人のお話を聞かせていただきました。
連休中なのに、出てきてくれた保育士さんにも、感謝!です。
毎回、思うことですが、子供を誰かに預けて、
自分のために何かをする時間ができるってことは、
本当に有り難い。
育児ノイローゼのいちばんの解消法と感じます。

さて、この日は、仏教の根幹の因果の道理について、
非常に詳しくお聞きしました。

因果の道理とは、原因と結果についての真理。
畳の縁につまづいたとか、髪の毛一本抜けたとか、
どんな小さな結果にも原因がある。
原因なしに起きる結果は、万に一つ、億に一つもない
、ということです。

中でも私たちが最も知りたいのが、自分の運命。
(仏教では、本当は運命とはいわずに、禍福というそうです)
それは、

善因善果 善いタネまけば、善い結果が起きる
悪因悪果 悪いタネまけば、悪い結果が引き起こる
自因自果 自分のまいたタネは、自分で刈り取らねばならない

という法則で、現れると説かれています。

つい最近、高速バスの運転手が居眠りして、7人が亡くなった事故が
ありましたよね。
この事件なんか、運転手が原因で、死傷したように思うので、
他因自果なんじゃないかと思えるんですが、
これも例外じゃないとお聞きしました。

45人のバスの乗客のうち、2人は無傷だった。
死んだ人もいるし、ケガの状態も皆、違う。
座る場所によって生死が別れた。
その場所へ、その人はなぜ座ったのか。

結果が違うということは、原因が違う。
もし、運転手が原因ならば、結果は同じになるはず。

その場所へ座り、そのような結果を受けたのは、
その人その人のタネマキによるのだと教えていただきました。
それは、過去世からのその人の行為、業によるのだそうです。

お釈迦さまは、

「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
 未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
     
と説かれています。現在受けている結果を知れば、
一切の過去の因が分かる。
現在どんなタネマキしているかが分かれば、
未来どんな結果を受けるかも分かる。
現在に、過去も未来も皆、収まるということです。
何という、スケールの教えでしょう!!

さて、運転手は悪くないのかというと、そうではなく、
「悪縁」だった。

ちょうど、米ができるには、
モミダネという「因」に、太陽の光や水、土などの「縁」が
結びついて、米という「果」ができるように、
因だけでは、結果は起きない。
因と縁が結びついて結果が起きる。
運転手という「悪縁」と、その人自身の因が
結びついて、それぞれが、そのような結果を受けたのだと
分かりました。

仏教って、なんと精緻な教えでしょうか。
育児ノイローゼの特効薬、どころでない、
全人類の苦悩の根元を除く、深さの知れぬ深い教えと
またまた知らされた一日でした。

4月 05

桜のたよりが待ち遠しいこの頃です。
魔の2歳児は脱したとはいえ、より活発に動き回るように
なったので、目が離せません。
つい先日、移動式の駐車場にはさまれて幼い子供が死亡した
事件も聞いたので、油断大敵です。
最近は、掃除機にとても興味を持つようになりました。
私が掃除していると、自分でやりたがるんですね。
女の子なんだから、掃除好きになるのは、
いいことですが、
させないと、カンシャクを起こすので、
こちらは育児ノイローゼになりそうになる。
きちんとできるわけないですからね……。
なので、とりあえずはさせて、娘がやったあとに、
もう一度する。
掃除時間、倍以上、かかっちゃうよ~って感じです。

さて、今月も、二千畳で、親鸞聖人のお話を聞かせていただきました。
休みの日に、保育士さんに預けて、一時、ほっとできるっていうのも
二千畳に行きたいと思う理由の一つです。
育児ノイローゼになりそうな時は、
子供を誰かに預けてみるっていうのは、
非常によい対処法だと思うようになりました。
その上、尊いお話を聞かせていただけるなんて、一石百鳥って感じです。

今回は、『正信偈』の道綽禅師のお話でした。

道綽決聖道難証(道綽は、聖道の証し難きことを決し)
唯明浄土可通入(唯、浄土の通入すべきことを明す)
万善自力貶勤修(万善の自力、勤修を貶し)
円満徳号勧専称(円満の徳号、専称を勧む)
三不三信誨慇懃(三不・三信の誨、慇懃にして)
像末法滅同悲引(像・末・法滅、同じく悲引したまう)
一生造悪値弘誓(一生悪を造れども弘誓に値いぬれば)
至安養界証妙果(安養界に至りて妙果を証せしむ)

道綽禅師は、曇鸞大師のあと、110年あとの中国の方で、
当初は、いわゆる修行の仏教、聖道門の一派、
「涅槃宗」に打ち込んでおられたそうです。
ところが、尊敬されていた曇鸞大師の旧跡・玄忠寺に詣でた時に、
境内の碑文を見る機会がありました。
そこには、曇鸞大師ほどの偉大な高僧も、
自力修行を捨てて、阿弥陀仏の本願他力をたのみ、
仙経を焼き捨てて、浄土教に帰依なされたと書かれていた。

それで道綽禅師ご自身も、聖道門を捨てて、浄土門に帰して救われた。

その自らの体験から、聖道門では助からないぞ、
浄土の教えのみが、救われる道である、
と、道綽禅師は断言されました。
そして、『観無量寿経』を解釈して有名な『安楽集』を著された。
その『安楽集』に書かれている内容を、親鸞聖人が、『正信偈』に、
著してくださったものと聞きました。

聖道門では助からないぞと断言されたところが、
すごいなあ、って思います。
誰かが信じているものをダメだ、というのは、
勇気のいることですよね。
学者の書いた本を読むと、大抵、
「~でしょう」
とか、
「~と思います」
などと、語尾を濁している。
断言すると、「偏っている」とか非難されたり、嫌われたりします。
それをあえて、断言してくだされたからこそ、今日の私たちも、
ハッキリ、聖道門では救われないんだなあと分かります。
だいたい、山に籠もって修行したり、肉を食べなかったり、
結婚もできないなんてこと、普通、できないってすぐに分かりそうなものですが、
自惚れ強い私たちは、ハッキリ断言されないと分からないものなんだと
思います。

それで、念仏を勧められたのですが、
ただ称えていればいいのかっていうと、それは違うそうです。

「三不三信誨慇懃」

自力、つまり、救われる前の心を、「三不信」と
道綽禅師は教えられた。それに対して、
他力、救われたあとの心を、「三信」と教えられています。

 三信  三不信

○淳心    不淳(あつからず)
○一心    不一(一ならず)
○相続心  不相続(そうぞくせず)

 親鸞聖人のご和讃では、

「不如実修行といへること
 鸞師釈してのたまはく
 一者信心あつからず
 若存若亡するゆへに」

「二者信心一ならず
 決定なきゆへなれば
 三者信心相続せず
 餘念間故とのべたまう」

とあります。

淳からず、というのは、薄い。浅いってことです。
心が穏やかな時はこの調子で行けばいいと思えるけれども、
心散り乱れると、このままでは助からないのではなかろうかと思う。
善悪で信心が動乱してしまう。
真実の信心は、善もほしからず、悪も恐れず、善悪によって
フラフラしたりしません。

信心が一ならず、とは、道端の地蔵に頭を下げてみたり、
宮に頭下げてみたり。
「誰かが助けてくれるやろ」と思っている。
真実の信心になった人は、
「弥陀よりほかに、私の後生の一大事、助けてくだされる方はなかった」
と心が一つに定まる。

信心が相続せず、とは、
「寺は照る照る、道々曇り、家に帰れば雨風じゃ」
と、心が続かない。
真実の信心の人は、続く。

だから、不淳、不一、不相続の心で念仏を称えているのでは、
助からないと教えられたと聞きました。

自力他力の水際って、ものすごくハッキリして、
非常に変わるものなんですね。

親鸞聖人の教えの底知れぬ深さが、ますます知らされたご縁でした。
育児ノイローゼになりそう……なんて言っている友人にも
話したいなあって思います。
もちろん、いつかはわが子にも、しっかり伝えられるように、
まずは自分が真剣に聞いていきたいと思っています。

3月 02

2月は雪でうんざりでしたが、ようやく春の足音が聞こえてきました。
でも、子供って雪、好きなんですよね。
外を歩いていても、わざわざ残雪の山のところに行って、
飛び乗ってみたり、カチカチに凍っているところを通ろうとしたり。
育児ノイローゼ、とまではいきませんが、
すべって転んだりしないかと、ヒヤヒヤします。

さて、今月は、親鸞会の二千畳の会場で、座談会を聞かせていただきました。
子供は、専門の保育士さんに、預かってもらえるので、安心です。
休みの日でも、すこーし、こうやって、子供と離れている時間があると、
育児ノイローゼにはなりにくいって感じがします。
さて、今回は、『歎異鈔』第6章のお話でした。

歎異抄第6章に、親鸞聖人は、驚くべきことを仰っています。

「親鸞は弟子一人ももたず候」
(親鸞には、弟子など一人もいない)

と言われたのです。
 こんなお言葉を聞いたら、

「えーっ、ウソでしょう?」

とか、

「ご謙遜なされているのだろう」、

もしくは、

「私と一緒だ。本当にお弟子がなかったのだろう」

などと思うでしょう。

 親鸞聖人に、多くのお弟子があったことは、『親鸞聖人門侶交名牒』などの
資料によると、六、七十名あったことが確認できるそうです。
 歴史上の事実なのです。
 では、どうして、弟子など一人もいない、と仰ったのか。

『歎異抄をひらく』には、次のようにご解説くだされています。

「それは聖人自身の、深い自覚以外なかったのである。
 聖人はかの人々を、決して、わが弟子とは思われなかった。というよりも、
 毛頭、思えなかったからであろう。
 表面上確かに彼らは、聖人に導かれ、生死の一大事に驚き、
 真剣に聞法し救われたかのように見えるが、
 真実はそうでないことを、誰よりも聖人は、強く自覚されていたからである。

 もし親鸞の裁量によって、かの人たちが聞法し救われたのならば、
 私の弟子ともいえよう。だが、ひとえに弥陀の大きな慈悲の心によっての
 ことだから、弟子などというのはとんでもないことである、
 とおっしゃるのだ。

 流れを汲みて源を知る聖人は、生死の一大事に驚き、聞法に燃え
 真の幸福に生かされたのは、すべて阿弥陀仏の大きなはたらきかけ
 であることを、明らかに知らされていたからにちがいない」

  親鸞聖人ご自身が、弥陀に救われて、
 「すべては、阿弥陀仏の一人働きであった」
 と知らされた。
 これは親鸞だけでなく、ほかの人たちも同じこと。
 親鸞が、独自な教えを説いて、聞き求めている人たちではなく、
 すべては阿弥陀仏のおはたらき。
 だから、師は阿弥陀仏であって、この親鸞ではない、という
 自覚から仰ったお言葉とお聞きしました。

仏法を知らなければ、毛頭知りえぬ御心です。
 
育児ノイローゼなんて言っていないで、
かわいい娘にもいつか、この大法を聞かせねば、
と思わずにおれませんでした。

2月 01

インフルエンザが流行っていますが、
大丈夫ですか?

うちの園では、10人の子が休んだので、
クラス閉鎖措置が取られました。
2日間だけ、預かってもらえないんです。
新年、早々、仕事を休まなくっちゃならないなんて、
また白い目で見られそう。
育児ノイローゼが始まっちゃうかも……と
思いましたが、
実際には、たまには娘と一緒に家にいるのも、いいもんだなあ、
と感じました。

もう3歳、一人っ子で、遊び相手がいなくても、
一人っ子は一人っ子なりに、一人遊びを覚えるものだそうで、
娘も、このごろは、お絵かきしたり、
一人で何やら歌ったりと、四六時中、まとわりついている
状態は脱したようです。

それでも、突然、膝の上に乗ってきたり、
抱きついてきたり。
それがまた、かわいいと思えるようになりました。
育児ノイローゼ、このまま、遠のいていくといいんですけれど。

今月も、親鸞聖人の教えを聞く「テレビ座談会」で
学ばせていただきました。

『歎異鈔』のお話から、名号と信心と念仏の関係を詳しく
お聞きしました。

名号とは、阿弥陀仏が作られた南無阿弥陀仏という薬。
なぜ作られたのか。
それは、病人がいたから。
全人類は、

「無明業障の恐ろしき病」

にかかっていると説かれているそうです。
この病にかかっていない人は、一人もいない。
自覚がないだけ。先祖もかかっていたし、子孫も全部かかっている。
仏教を聞くと、精密検査を受けたように、
この病が知らされてくる。
漠然と分かる症状は、

 何のために生まれてきたか、分からない。
 何やっても、むなしい。
 何があっても苦しい。無くても苦しい。

確かに、私にも、こんな心、あります。
お釈迦さまは、太子として生まれられたので、
衣食住には何不自由なかった。それでも、満足できない心に
気づかれて、入山学道なされた。
そして、この病に気づかれた。
過去世、現在世、未来世の三世に渡って苦しめる病です。
その病を治してやりたいと作られた薬が、
「南無阿弥陀仏」
です。
これは、諸仏には作る力がなかった。
大宇宙の仏の先生である阿弥陀仏だけが、
この薬を作ることができたのです。
五劫の思惟と、兆歳永劫の行をなされ、
完成してくだされたのです。
そのことを、親鸞聖人は、『教行信証』に教えられています。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。
ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、
不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、
三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、
真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、
円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。
                        (教行信証)

すべての人間は、はるかな遠い昔から今日まで、邪悪に汚染されて
清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、まことの心は、
まったくない。かかる苦しみ悩む一切の人びとを阿弥陀仏は
憐れみ悲しみ、何とか助けようと兆載永劫のあいだ、
心も口も体も常に浄らかに保ち、その清浄なまことの心で、
全身全霊、ご修行なされて、完全無欠の不可称・不可説・不可思議の
無上の功徳(南無阿弥陀仏)を完成されたのである。

この薬を飲ませていただいたら、無明業障の恐ろしき病が
治って、往生一定になる。
いつ死んでも極楽参り間違いない身に救われると聞きました。
たのむ一念で、そうなったのが、「信心」です。

念仏は、そのような幸福に救われたお礼の言葉。

結婚する前は、「娘」。
結婚して私のものになると、「嫁」。
子供が生まれると、「母」になる。
同じ女性でも、呼び方が変わります。

「名号」と「信心」と「念仏」も、
皆、南無阿弥陀仏で体は一緒ですが、
名前が変わると、大変わりする。

その名号という薬をのむには、

「聴聞に極まる」

と説かれています。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
これを「聞」と曰うなり(『教行信証』信巻)

聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、ツユチリほどの
疑心もなくなったのを、聞というのである。

どれだけ聞いても、きりもきわもないものではない。
必ず、「疑心あることなし」と晴れて大満足するゴールがある。
だから、その疑心が晴れるまで、聴聞が大切だとお聞きしました。

毎回のことですが、深さの知れない教えを
お聞かせいただいているんだなあ、
という喜びが、ふつふつと湧いてきます。

子供が成長してきたこともあるのでしょうが、
育児ノイローゼが遠のいているのは、
やはり、真実の仏法を聞かせていただけるからなんだなあ、
と思うこのごろです。

12月 01

NHKの朝の連続テレビ小説「カーネーション」見ておられますか?
女主人公・糸子の次女・直子ちゃんの
やんちゃぶりがケタ外れで、
子守をお願いして、一度は引き受けてくれても、
すぐに断られてしまう……なんてところが、ありましたよね。
うちの子も魔の2歳児なんで、
大変だ、育児ノイローゼになる~と思っていましたが、
直子ちゃんほどではないかなあ、と、少々、ほっとしています。
まあ、作り話なのでしょうが。
同じ年頃の子供さんを持つ母親は、
同じような気持ちで、癒されているのかもしれませんね?

直子ちゃんに癒されているので、
今は、育児ノイローゼにはなっていませんが、
やっぱり仏法が聞きたくなって、
テレビ座談会に行ってきました。

『歎異抄をひらく』への質問に答えてくださるご縁の時です。
今回は、歎異抄第5章の部分からでした。
『歎異抄をひらく』に、『歎異抄』第5章は、

「真の孝行を示されたもの」

と、見出しで出ています。

「真の孝行とは、どういうことでしょうか」

という質問でした。

世間では、孝行といえば、
お金を与えたり、旅行に連れていったり、肩をもんだり、
おいしいものを食べさせてやったりすることだと思われています。
また、すでに亡くなっている親に対しては、
盛大な葬式をしたり、立派な墓を立てたり、法事をしたり、
線香を立てたり、念仏を称えたりすることだと思っている人が、
大多数でしょう。

ところが親鸞聖人は、驚くべきことを仰った。

「親鸞は父母の孝養のためとて念仏
 一返にても申したることいまだ候わず」

〝親鸞は、亡き父母の追善供養のために、
 念仏一遍、いまだかつて称えたことはない〟

えーっ、親鸞さま、本当にそんなこと、仰ったの?
と思うようなお言葉です。
これは、
葬式、墓、法事、線香、花、供物、念仏などが、
死んだ親の喜ぶ追善供養になると思っている常識を
ぶち破られたお言葉とお聞きしました。

『改邪鈔』には、さらに驚くお言葉が書かれています。

「親鸞閉眼せば、
 賀茂河に入れて魚に与うべし」

〝私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ〟

遺体を河に捨てたら、葬式や墓も要りません。
本当に、ビックリするお言葉です。
なぜ、こんなことを仰ったのか。
その御心が、続けて書かれています。

「これすなわち、この肉身を軽ろんじて、
 仏法の信心を本と
 すべき由をあらわしまします故なり」

〝しばしば親鸞聖人がこのように仰ったのはなぜか。
 それは、セミの抜け殻のような肉体の後始末よりも、
 永遠の魂の解決(信心決定)こそが、最も急がねばならないことを
 教導されたものである〟

別に、葬式、法事はいらない、止めよ、ということではなくて、
そういう肉体の後始末に力を入れるよりも、
もっともっと大事なことがある。
それは、「仏法の信心」、
この世で阿弥陀仏に救われることだ、
と、衝撃的な言葉で、ハッキリ知らせるために
仰ったのですね。

阿弥陀仏は、すべての人を、死んでからではない、
平生に、絶対の幸福に救うと誓われている。
さらに、生きている時に絶対の幸福に救われた人は、
必ず、死んで、弥陀の浄土へ往生して、
仏のさとりを開かせるとも誓われ、
その誓願も成就していると聞きました。

だから、この世で絶対の幸福に救われることが大事なのですね。
親鸞聖人の教えを、

「平生業成」……平生に人生の大事業が完成する

「現生正定聚」…現在生きている時に、
        正定聚(絶対の幸福)の身になれる

といわれるのは、このためなんだなあ、と知らされました。

そうなると、真の孝行とは、どんなことか、の答えは、
 ・この世でわが身が阿弥陀仏に救われること

 ・死んで仏のさとりを開いて、父母を救うこと

 ・両親が健在であれば、仏法を伝えること
になると聞かせていただきました。

親鸞聖人の教えを知る前は、仏教といったら、葬式・法事をするもんだ、
くらいに思っていましたが、大変な誤解だったのですね。
生きている時に弥陀に救われる、これが一番大事と分かりました。

育児ノイローゼを解消したいと思って聞き始めた仏法ですが、
育児ノイローゼがなくても、聞きたいという心が大きくなっているこのごろです。

11月 09

魔の2歳児とはよくぞ言ったもの。
イヤイヤは激しいし、イタズラも大胆です。
今朝、閉口したのは、一人で外に出ようとして、
玄関のカギを開けようとしたことです。
ただ、サムターンを回すくらいなら、そんなに問題ないんですけど、
チェーンのカギを外そうとして、ガチャガチャやってもなかなか開かず、
力まかせにドンドンやって、壊しちゃったのです。
弱いバネの部分に力が加わったのか、バネが変な風に曲がってしまい、
大人の力でも、チェーンが外れなくなってしまいました。
朝、仕事に出掛けなくちゃならない時間が迫っているのに、
なんてこと、してくれるの!!!
思わず、怒鳴ってしまいました。そしたら、
大声で泣き出すし、泣き出したら、止まらないし。
また、育児ノイローゼになりそうでした。
幸い、チェーンをドアにくくりつけている金具のネジを
回して、金具をはずすことができたので、
何とか、壊れたチェーンを外して脱出できたんですけど、
ほんと、困りました。
2歳でこんな力あったら、もっと大きくなったら、
どうなることやら……。

今回も、育児ノイローゼからの解放を求めて、
『なぜ生きる』(1万年堂出版)のテレビ座談会を
聞かせていただきました。

その2部7章には『教行信証』にも冒頭に書かれていることで、

釈尊在世中、王舎城におきた悲劇のヒロイン・
イダイケ夫人が、阿弥陀仏の救いにあって、人生の目的を果たした史実

について、記されています。

その一節に、以下のようなお言葉があります。

******************************************************

「今日は、大事を説いて聞かせよう」
と前置きして『法華経』を説かれている時だった。
大衆はかたずをのんで聞き入っていた。その真っ最中に
イダイケの悲痛な叫びが釈尊の心中に届いたのだ。
イダイケの心のすべてを見抜かれた釈尊は、ただちに
説法を中断し、王舎城へと降臨されたのである。
よほどのことといわねばならぬ。

******************************************************

質問は、

「お釈迦さまは、法華経の説法を中断されてまで、
なぜイダイケ夫人のもとへ行かれたのでしょうか」

です。

お答えは、法華経は、
「これを説くために私はこの世に現れたのだ」
と仰って説かれたお経であり、出世本懐経と言われる。
しかし、本当は、法華経が釈迦の出世本懐経ではなかった。
釈迦の出世本懐中の本懐経があったのです。

お釈迦さまが、35歳で仏の悟りを開かれてから、80歳で
お亡くなりになられるまで45年間、仏として説いていかれた
み教えが、仏教です。
その教えは、一切経となって残っていて、その数は、
七千巻余りにものぼります。
その中でも、重要な経典が『法華経』ですが、
その法華経を途中でやめられてまで説かれたのが、
『観無量寿経』です。

そのことを『御文章』4帖目3通には、

「これによりて、むかし釈尊霊鷲山にましまして、
一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆、阿闍世の逆害を興し、
釈迦、韋提をして安養を願わしめたまいしによりて、
かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、
韋提希夫人のために浄土の教を弘めましまししによりて、
弥陀の本願この時にあたりて盛なり。
 このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、この謂なり」

とあります。
釈迦の教えは、法華経までなので、そういう意味で、
法華経が、釈迦の出世本懐経となる。
『観無量寿経』は、無量寿仏(阿弥陀仏)を観るお経、
阿弥陀仏のことが説かれているお経です。
法華経を止めてまで、観経を説かれたのは、
お釈迦さまから、阿弥陀仏にバトンタッチなされた、ということ。
だから、阿弥陀仏の本願を説かれることが、
釈迦がこの世に生まれてきた目的だった。
釈迦の出世本懐中の本懐だった。

それを『正信偈』に、

「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海」

 釈迦如来がこの世に生まれてきた目的は、
 弥陀の本願を説かれること、ただ一つだった、

と、親鸞聖人、教えられています。
お釈迦さまは、阿弥陀仏のお弟子なので、
阿弥陀仏の指示によって、教えを説かれた、と聞きました。

七千余巻の一切経は、法華経に収まり、それがさらに、観無量寿経に説かれる
阿弥陀仏の本願に収まるんですね。
なんだか、ものすごーくスケールの大きいことを聞かせていただけたと
思いました。

育児ノイローゼもどこへやら。
この子も、いつか、一緒に、この阿弥陀仏の本願をお聞きできるようになるのかなあ、
と、ほほえんで眺められる気持ちになりました。
仏法をお聞きするって、本当に大切なんだなあ、と思ったご縁でした。

10月 04

10月に入って、急に肌寒くなってきました。
ついこの間まで、半袖で十分の暑さだったのに、
風邪ひきそうです。
寝相の悪い娘は、布団からすぐに飛び出しちゃうのです。
夏場はそんなに心配しなかったんですけど、
これから寒くなってくると、布団をはぐと風邪を引くから、
気になって、眠りが浅くなる。
眠りが浅いと、育児ノイローゼを誘発しやすいと聞きました。
気候としてはちょうどいいかな、
と思いますが、これには困ったものです。

今回も、育児ノイローゼからの解放を求めて、
『なぜ生きる』(1万年堂出版)のテレビ座談会を
聞かせていただきました。

その中の一節について、質問がありました。
その一節とは、以下のようなお言葉です。

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「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」(親鸞聖人)

〝縁さえくれば、どんな恐ろしいことでもする親鸞だ〟

との告白は、万人共通の実相に違いない。

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質問は、

「自分も、そのような人間だと思います。
 どんな心掛けで生活していけばよろしいでしょうか」

というものでした。

私は、父と母、両親があってこの世に生まれた。
その両親にも、それぞれ、父母があった。
その祖父母にも、それぞれ、両親があった。
こうやって、32代遡ると、70億を超えるそうです。
今の地球の人口ほど。
自分の先祖には、今の地球上にいる人々と同じようなことを
やっている人たちがあった
ことでしょう。
先祖といっても、素晴らしい人ばかりではなかった。

それとは別に、私たち一人一人には、三世を貫く生命がある。
それは阿頼耶識といって、暴流のごときもの。
過去世からの業因がすべてそこに収まっている。
ないものがない。
今、地球上でされていることの因、すべてある。
殺人も、強姦も、盗みも、すべて。
だから、その因によって、どんな結果が現れても、当然なのが私。
なんで、結果が現れないのかといえば、縁がないから。

因と縁が結びついて、結果が生じる。
因はある。縁さえくれば、どんなことでもしてしまう。
それが人間。

では、そんな人間はどうすればよいか。
親鸞聖人は、教えられている。
「悪をこのまん人には慎みて遠ざかれ、近づくべからず」
 とこそ説かれて候え。
「善知識・同行には親しみ近づけ」とこそ説きおかれて候え。
                     (末灯鈔)

ここで、善・悪の基準は、仏縁。
一番大事なのは、仏縁だから。
仏縁によって、真実の幸福になれるのだから。

だから、仏縁のない人、仏法を謗っている人、
仏法を曲げている人には、近づくな。
善知識・同行に近づきなさいよ、と、
親鸞聖人は教えてくださっている、
とお聞きしました。

確かに私たちは、人間に一番影響を受けていると思います。
仏法を聞いている人たちは、皆、親切で、明るくて、
礼儀正しい人たちばかり。
そんな人に近づいていると、自分もだんだんそうなっていけるように
感じます。
育児ノイローゼも遠ざかっていくような感じがするんです。

これからも、善知識・同行に近づくように、
仏法を聞いて、本当の幸せになりたいと思います。

9月 02

9月に入ったのに、まだジメジメとした暑さが続いています。
おまけに、台風まで接近中とか。
イヤイヤ期の娘は、いたずら真っ盛りなので、
また育児ノイローゼになりそう……って感じです。

今回も、育児ノイローゼからの解放を求めて、
『なぜ生きる』のテレビ座談会を
聞かせていただきました。

『なぜ生きる』は、親鸞会会長の高森顕徹先生のご著書で、
65万部も出ているロングセラーです。
その中に、次のような一節があります。

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  世人薄俗にして、共に不急の事を諍う  (『大無量寿経』)

「世の中の人は、目先のことばかりに心をうばわれて、
無明の闇を破る人生の大事を知らない」

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これは、お釈迦さまのお言葉だそうです。

「このように教えていただいても、目先のことばかりに
 心奪われてしまいます。どうしたらよいでしょうか」

という質問に答えてくださいました。
それに対して、
この疑問に答えておられるのが、釈迦一代の教えであると
お聞きしました。
だからこの質問は、

「どうして仏教を聞かなければいけないのでしょうか」

と同じになります。

4歳で父君に、8歳で母君に死別されたといわれる親鸞聖人が、
つぎはオレの番だと死の影に驚き、出家のときに詠まれた歌があります。

「明日ありと
  思う心のあだ桜
   夜半に嵐の吹かぬものかわ」

明日、桜を見ようと思っていても、
夜半に一陣の嵐が吹けば、
散ってしまい、もう見ることはできません。
人間の命は、桜の花よりもはかなきものといわれます。
明日があると思っていても、ない日が来る。
必ず死んでゆかねばなりません。

ところが、政治、経済、科学、医学など、
人間の営みすべては、

「明日がある」

という前提で語られています。
「明日がある」と思う心は、
「死なない」と思う心であり、
「明日がある」と思うからこそ、
「どう生きる」で心が埋め尽くされてしまう。
「なぜ生きる」に心が向かないのです。

「明日がある」というのは、全人類の金剛の信心だけれども、
必ず裏切られる、馬鹿な心。
その心を見つめてゆかねばならないと
お聞きしました。

人類の歴史上、元禄時代も、バブル絶頂期も、本当の安心満足は
なかった。
「なぜ生きる」を知らないから。
「どう生きる」を生かすも殺すも、
「なぜ生きる」を知るか否かにかかっている。

阿弥陀仏に救われるために人間に生まれてきた。
仏法を聞くのは、阿弥陀仏に一念で救われて、
絶対の幸福になるため。
すべての根底に、この「なぜ生きる」がある。
そこに向かって生きるのだと
お聞きしました。

確かに、「明日がある」と思うから、
些細なことが気になって、イライラして、
育児ノイローゼにもなったりするんですよね。
「明日がない」と思ったら、
「なぜ生きる」をど真剣に考える。
最も大事なことをいちばんに優先して考えるでしょう。

自分の中にある、「明日あり」という迷った心を
見つめていかないといけないんですね。

毎回のことですが、仏教って深い。深さも知れぬ奥深さを
感じます。

8月 01

暑中お見舞い申し上げます。

中国では列車事故、日本では豪雨と、
無常の嵐が吹き荒れています。
スカッとするニュースは、なでしこジャパンの優勝くらいです。
寝苦しいのか、子供はなかなか寝付いてくれず、
寝不足ぎみなこともあって、育児ノイローゼ寸前か、と感じていました。

というわけで、育児ノイローゼからの解放を求めて、
今回は、『歎異抄をひらく』のテレビ座談会を聞かせていただきました。

『歎異抄をひらく』というのは、
『歎異抄』の解説書の決定版といわれている書籍で、
20万部に迫る勢いで読まれているロングセラーです。
その中に、次のようなお言葉があります。

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「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
                         (歎異抄)
〝どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ〟

 この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、
偽らざる実相であることを、『教行信証』や『歎異抄』には
多く強く繰り返される。

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証)

〝すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、
邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、
真実の心は、まったくない〟

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このお言葉について、

「なぜ親鸞聖人は、古今東西万人の実相をこのように
 断言できたのでしょうか?」

という質問が出されました。

確かに、ご自身のことだけを自分は極悪人だと言われるなら分かりますが、
ずーっと昔の人も、何千年先の人も、世界中どこの人もみんな、極悪人だ、
と、言われると、どうして?と思います。

それについて、
「阿弥陀仏の本願に根拠がある」
とお答えくださいました。

阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏が建てられたお約束で、
漢字36文字で誓われています。

「説我得仏 十方衆生
 至心信楽 欲生我国
 乃至十念
 若不生者 不取正覚
 唯除五逆 誹謗正法」

ここで、十方衆生とは、全人類のことです。
阿弥陀仏は、十方衆生、全人類をどう見てとられているか。
それは、「五逆誹謗正法」、五逆と謗法の者と見ておられる。
五逆とは、親殺しの罪。
親を殺したりはしてないよ?と思いますが、
しかし、仏教では、私たちは、身と口と心の三つで、罪を造っていて、
心の罪がいちばん重いと教えられています。
心の命令で、口や体が動くからです。
だから、親鸞聖人は、

「親をそしる者をば謗法の者と申すなり」

親に向かって、「いい加減に死んでくれたら……」
「邪魔だ」などと思うのも、五逆罪。
「こんなにつらいのなら、死んだほうがましだ」
と思うのも、産んだ親をウラム心なので、五逆罪だそうです。

それよりもっと恐ろしいのが、謗法罪。
仏法を謗る罪です。
「仏法も鉄砲もあるか」とあからさまに謗るだけでなく、
親鸞聖人は、

「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、
 謗法の者と申すなり」

と仰って、善知識のご説法を聞きながら、
「今日の話は長かった、短かった」と、善知識の上にたって批評したり、
眠くなったりするのも、謗法罪だよ、と教えられています。
仏法聞いていない人は、身体で、そんなもの、聞く価値ないよと
謗っているので、謗法罪を造らない人はないと説かれています。

そういう五逆・謗法の者を助けるために建てられたのが、
弥陀の本願。
その弥陀の本願を聞と聞くと、

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
 これを『聞』と曰うなり」、

仏願の生起・本末にツユチリほどの疑心もなくなってしまうと、
親鸞聖人、仰せです。
阿弥陀仏の本願に、十方衆生は五逆・謗法、悪人と言われている。
その本願に疑い晴れるから、
悪人は人間の代名詞とハッキリする、とお聞きしました。

古今東西、全人類のことがハッキリするなんて、
なんてスケールの大きな教えでしょう!

今回もまた、育児ノイローゼも吹き飛ぶ大変なご縁でした。

7月 04

まだまだジメジメ、梅雨が続いています。
育児ノイローゼもエスカレートしがちな季節です。

育児ノイローゼからの解放を求めて、
先月に続いて、親鸞聖人の講演会に行って来ました。
親鸞会館では毎回、『正信偈』について話されているそうです。

今回は、
「天親菩薩造論説
 帰命無礙光如来
 依修多羅顕真実
 光闡横超大誓願」

のところのお話でした。

天親菩薩は今から1700年前のインドの方で、千部の論主といわれるほど
多くの著作を残された方だそうです。
その目的はただ一つ。
「無礙光如来に帰命する時があるから、
 その身に救われてくれよ」
ということでした。

無礙光如来とは、大宇宙方の諸仏の先生である阿弥陀如来の別名と
聞きました。
阿弥陀仏は、すべての人を平生に、信楽(絶対の幸福)に救うと
誓っておられる。
今日あって、明日なき幸福ではなく、ずーっと続く幸福に救うと
約束されています。
いつでも、どこでも変わらぬこの真実を、天親菩薩は、
修多羅(一切経)によって明らかになされた。

横超の大誓願とは、阿弥陀仏の本願のことだそうです。
一口に悟りといっても、52の階梯があるのだそうで、
その一番上が、仏覚、仏の悟りです。
修行して悟りを目指す人たちは、この仏の悟りを開くまでに、
三大阿僧祇劫という気の遠くなる長年月の修練が必要。
中国の天台宗を開いた智者でも、五品弟子位という、下のほうの位までしか
悟れなかった。

しかし、

阿弥陀仏のお力によって、一念という時間の極まりに、
51段高飛びして、正定聚、絶対の幸福になり、
死ぬと同時に、仏に成れる身に救われる。

これが、横超の大誓願だとお聞きしました。

自力の行者に比べて、なんというすごい救いでしょう。
またまた、ビックリ仰天。
私も、そんな身になれると言われるのですから、
本当にビックリです。

ご法話の間、面倒を見てくれている保育士さんに、
娘も慣れてきたみたいですし、
娘から解放(?)されて、
私の育児ノイローゼもすっかり収まりました。

今年は、親鸞聖人の750回忌ということですが、
親鸞聖人は、本当にすごい、すごい教えを残してくださったのだなあ、
と、日一日と知らされてきました。

まだまだ分からないことだらけですが、また聞きたいと思っています。

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